第11話『曲がった男』
東京都 足立区 郊外
5月の末日、晴れ渡り温かさに恵まれた日だった。
「行儀よく態度には気をつけてくださいよ」
音が言った。
何をそんなに気にしているのか。
洋は肩をすくめて「フフフ」と笑った。
あの手紙は三日前のことだ。
「あなたに来てほしいと、ちゃんと手紙が届いているのだから、すっぽかさずに必ず来てくださいね」
あまり説明のない短い謎の手紙を読み、洋はようやく社長シズ子の昼食会に出かけることに決めた。
これまでも何度か誘われていたが、理由をつけて断っていた。しかし、今回は断る理由が見当たらなかった。
「では、ここがその住所か」
住宅街の道端で、洋は立ち止まった。
だが、地図を見ても、どうもおかしい。
「番地はわかっているのだが、行き方がよくわからないな」
よし、そこの都会風の老人に聞いてみよう。
「ちょっと、そこの爺さん、聞こえますか?」
爺さんは洋をジロリと見た。
そして突然、杖で洋の頭を叩いた!
『ポカリ』
「イテッ、何をするんだ!」
いや、人間の感覚とは、一度に二つの痛みを同時に感じることはないのだ。
こうすることで、君は頭の痛みだけを感じれば済む。
「いや、最初からどこも痛くないんですが」
「親に口答えするな『ポカリ』」
「(親?こいつ、一体いくつなんだ)
最初から口答えなど…『ポカリ』イタイ!」
だめだ、この爺さんは気狂いだ。
背を向けかけた瞬間、爺さんが言った。
「聞きたいことがあったのではないのか?」
洋の足が止まった。
「もう解決したよ」
知らない人に声をかけると危険だということが、痛いほど分かった。
「お前さんは考古学者だろう」
衝撃の一言に洋の身体はピクリと反応した。
この爺さんはただ者ではない。
「人違いだ、俺は花屋をしている」
「隠しても無駄だ、お前さんのことは全部分かっているんだよ。
今日ここに来ることもな。
しかし、恐れることはない、私がここにいる理由は別のことにあるのだ。
そして、いずれまた会うことになるだろう」
「あなたは何者なんだい?」
「わしの名はキヨミ、探している家はその建物の裏に行けばわかる」
そう言って彼は去っていった。
洋はその場でしばらく考え込み、「驚いたな、まったく!」と独り言を言い、目的地に向かった。
社長宅は郊外にあるとはいえ、普通では住めない大きな家だった。
シズ子さんは現在一人暮らしのはずだ。
『この会社はずいぶんと儲かっているのだろうか?お給料は安いのに…』
屋敷の庭は広く、様々な珍しい花が咲いている。これだけの花を育てるには、かなりの経験が必要だ。
シズ子さんが出迎えてくれた。
洋風の高価そうな黒い衣装を着ており、初夏の頃合いにぴったりの涼しげな印象は普段と違い、この人も悪くないなと少しだけ認めた。
「花がお好きなんですか?」
「うちの家政婦に腕のいい庭師がいて、こんなに綺麗にしてくれたんですよ。」庭の隅にある墓のようなものの周りにも花が囲まれていた。
そして、整った庭には70キロはありそうなマスチフ犬がいる。番犬か、飼い犬か、それが問題だ。
ワンッ!と言って洋に駆けてきた。
「コレ、『ムンバ』!大人しくしなさい!」犬の名前はこのムンバらしい…どうやらペットのようだ。
「かわいいワンちゃんですね。」
世間一般ではペットの犬にこう言うのが社交辞令らしい。
「チビの頃から育てていますが、わがままばかりのバカ犬なんです。」
家政婦らしい女性が現れた。肩掛けのロングエプロンをしている。「食事の用意をいたします。」
どこかで見た顔だと思ったら、ゴミ漁り女ではないか!
ゴミ漁り女、『藤田ましろ』。
意外な場所での再会だった。
彼女も洋を一目見てピクリとしたが、すぐに何もなかったかのように振る舞った。
洋はテラスのベンチに腰掛けた。シズ子さんも向かいに座った。
社長 樺山シズ子。見たところ40代独身。
やや獣の遺伝子を受けているような部分はあるが、育ちの良さを感じさせる品のある女性である。「今日は来てくださってありがとう、どのくらいかかりましたか?」
「遠方なんです、ずいぶんと時間がかかりました。22年くらい旅をして今ここにいます。」
それは確かに遠方ですね。
あなたがそういうなら…そうなんでしょう。
いや、旅をしてきたのはポケットの中にあるコインでしてね、ほら。
と言ってテーブルにパシリと置いた100円は平成15年の刻印があった。
「わお!ロマンチックね。あなたは元考古学者と聞いていましたから、お堅いイメージがありましたが、ユーモアのセンスもお持ちなんですね。」
「僕はいつでもその場の空気を和ませたくて冗談を言って、つい道化のふりをしてしまうんです。
でも、娘にはいつも分かってもらえず、しごかれるんですよ。こないだだって…」
そうこうしているうちに、テラスにランチが用意された。
普段食べたことのないような珍しいものが並んでいる。
「この黒い粒々はなんです?」
「それはキャビアと言います。お口の肥えた先生には、それほどたいした品物でもないので恐縮ですが…」
いや、恐縮なんてものではない。噂に聞いてはいたが、実物を見るのは初めてだった。
タニシの卵なら食べたことはあるが。
その途端、犬がワン!と言って洋の足に飛びかかってきた。
しかし、これはムンバの甘えで、軽く噛んで気を引こうとする癖だった。
ところが相手が悪かった。
長年のジャングル生活で身につけた獣に対する警戒心が災いし、気の毒な犬は急所を突かれ、一瞬で屍と化した。
「キャンッ!」「あら、ムンバどうしたの?」
イカン! 洋は犬の両手を取って、まるで生きているかのように動かしながらスキップして建物の裏側へ行き、ムンバを置いてきた。
「ワンちゃんは裏でチョウチョと遊んでいます。無邪気なものですね」何とかごまかした。
それにしても立派なご自宅ですね。一般庶民には憧れの暮らしです。
「こんなことを言ってはなんですが、他人から見れば満たされているようですが、私は幸せを感じないのです」
「あなたに分かるかしら?」
「別に、何も驚くことはないさ」アラジンも言っていた、「金持ちになりすぎて飽き飽きしたものの気持ちは分からないとね」
「今は財産なんかどうでもいいのです」
「立ち入った話ですが、洋さんの奥さんは亡くなられたと聞きましたが」
「もともと短命の家系でしてね、早く亡くなりましたが、長生きが幸せとも限りません。もっとも、僕と一緒になって幸せになれる道理はないのですが、結婚前にやめたほうがいいと言ったのに…」
「お悔やみ申し上げます。愛しておられたのですね」
(まぁそういうことにしておこう)
「こう言ってはなんですが、洋さんはまだ若いんですし、いい人がいればまた…」
注: シズ子さんは洋の秘密を知らないので、若いと思っている。
洋の回想
(部族の娘ルカはいい女だった。
残念なことに隣村の財産持ちのところに嫁に行ってしまった。
僕の恋はあそこで終わったんだ。)
チャラン。
シズ子さんがテーブルの上に鍵を置いた。
「この屋敷のカギです」
もしあなたが良ければ、この屋敷に住まわれても構いませんよ。
「どうして僕に?」
シズ子はしばらく何も言わなかった。
テラスの木漏れ日が、白いテーブルクロスの上で揺れていた。
「形だけでもいいんです。……私もひとり、あなたもひとり、ちょうどいいタイミングだと思いません?」