朝の違和感 ― 雪江(34歳)
10月◯日、月曜日の朝。
軽快なドラムのリズムが部屋に響いた。──ドンドコ、ドコドコ。
「えっ、私のじゃない…よね?」
音の出所を探すと、床に脱ぎ捨てられたコウイチのズボンから携帯が震えていた。
整理整頓が得意なくせに、服だけはそのまま放置する癖がある。
取り出してみると、やっぱり彼の携帯だった。
「もしもし」
『あぁ、雪江か』
(そうですよ、部屋には私しかいませんから…)
『携帯、忘れたみたいでさ。会社から確認でかけたんだ』
「どうするの? 取りに戻る?」
『お前、これから仕事だろ? そこに置いといていいよ。何とかする』
「本当に大丈夫?」
『問題ない。気にしないで』
そう言って通話はあっさり終わった。
──終わったはず…だった。
二年暮らしていて、コウイチが携帯を忘れることは珍しくない。
だが、雪江はふと首をかしげる。
(自分の携帯に“会社から”かけてくるって変…?)
水槽では、楊貴妃メダカが仲良く底砂をつついている。
彼女自身は人を疑うタイプではない。コウイチだって、信頼している。
「そうだよね、考えすぎ…」
そう言い聞かせながらズボンを洗おうと広げた時、膝のあたりに小さなシミを見つけた。
クンクン。
(これは……蜂蜜。しかも良いやつだ)
飲食店で働く雪江は、匂いだけで質の違いまで分かる。
しかし、コーヒー派の彼が蜂蜜をつけるとは思えない。
(いつ、どこで…?)
考えても答えは出ない。
ただ「知りたい」という気持ちだけが胸の奥でもやもやと広がった。
気がつけば、彼のスマホを手に取り、ロック解除を試していた。
〇△〇△──ブッブー
○○△△──ピッ、解除。
(ふふ、何でも同じ番号にしちゃうんだから)
不謹慎だと分かっていても、メッセージと発信履歴を確認してしまう。
目に止まったのは一件の着信。
レストラン『旅ねずみ』
…一昨日。
一年前、二人でよく行った。思い出の店だ。
その日コウイチは「現場でトラブルがあって遅くなる」と言っていた。
電話だけ…かもしれない。
でも、ズボンについていた蜂蜜は?
答えは出ないまま、雪江はその日の仕事へ向かった。
おにぎりを握りながらも、頭の中では電話と蜂蜜の匂いが離れなかった。
矢波研究所 ― 青い蜂のスケッチ
同じ頃。
矢波研究所では、三滝が机に向かい、鉛筆で見事なスケッチを描いていた。
「三滝くん、何描いてるの?」
「日本では珍しい“ルリモンハナバチ”ですよ。青い宝石みたいでしょう」
歌川は目を細めて感心する。
(フフン…最近はスケッチも満足に描けない自称学者が多いからな。
僕のような“本物”は貴重なんだよ)
「歌川さんはスケッチしないんですか?」
「アタシはこんなに綺麗には描けないよ〜」
(そうだろうとも!)
その時だ。
同僚のミエちゃんが、三滝の机を肘でトンッと突いて指差した。
黄金色の丸いアリが、机の上にちょこんとのっていた。
「これは…噂のミツツボアリ!?」

「正解。ハニーポットアントのリプリートね」
息を呑む三滝。
しかし、それは本物ではなかった。
「ふふ…これは作り物よ、精巧すぎて分からないでしょう?」
歌川はニヒヒと笑った。
「しかも食えるんだよ。ほら、食え」
「た、食べませんって!」
「アボリジニはこれをおやつにするんだ。問題ない!」
「いや、そういう問題では…!」
(つべこべ言うな)
「やめっ…!」
半ば強制的に口に入れられた瞬間──舌の上で、濃厚な蜂蜜の甘さがとろりと広がった。
「……うまい」
三滝は衝撃を受けた。
(アボリジニの人たち、すごいな…)
ちなみに近くの棚には“幼虫グミ”も並んでいた。
その夜 ― 田中邸
その日の夜。
コウイチが定時で帰り、雪江も日中のパートだけだったため、久しぶりに二人でゆっくりできる夜だった。
「風呂入ってくる」
「さっきお湯張ったところだよ」
リラックスした空気が流れていた──のだが。
ジャボッ。
「熱っっ!?」
「えっ、ごめんなさい! 温度高かった!?」
お湯は前の設定温度のままで、かなり熱かったらしい。
心配して雪江が覗きに来る。
「やけどしてない?」
「大丈夫。少し驚いただけ」
その時、雪江はふと気づいた。
コウイチの膝に、貼られた傷あて。
「…ねぇ、その膝どうしたの?」
「ああ、これ? 仕事中に蜂に刺されちゃって」
「蜂に?」
「大きいのがね。でも僕、毒には強いから平気さ」
雪江は虫が苦手で、蜂アレルギーもある。
しかし──
(蜂に刺された膝と、ズボンの“蜂蜜”)
何かが、一本の線でつながるような気がして、胸がざわついた。
第3話 終わり