第20話:赤き胎動、あるいは安らぎの閾値
[[壁の傷:ⅰⅱⅲⅳⅴⅵⅶ ⅷ ⅸⅹⅺⅻⅰⅱⅲⅳⅴⅵ ⅶ ⅷ ⅸⅹⅺⅻ ⅰ ⅱ ⅲ]
1. 雑居ビルの「聖域」
雑居ビルの奥。階段の灯りは半分死んでいた。 拳法の稽古帰り、ショコはその不気味な静寂の先に、場違いな看板を見つけた。
『癒しのマミねいちゃん』
手書きの文字が、わずかに傾いている。 扉を開けると、数人の男たちが言葉もなく座っていた。順番を待つ彼らの背中には、都会の喧騒に削られた「疲れ」が沈殿している。
室内は、質素な椅子とテーブル、そしてベッドのみ。 ショコが奥を覗き込むと、なんとあの女だ――私を軽々とひっくり返したマミがいた。 (……間違いない。あの、地面の近さを教えられた感触)
なぜ、こんなところで。 そう問いかける暇もなく、マミが目の前に立っていた。何も言わない。ただ、静かに手を差し出す。
「えっ……!?」 反射的にその手を取った瞬間、ショコは息を呑んだ。 握り合う、ただそれだけで。 身体の芯に溜まっていた「ざらつき」が、温かな奔流に押し流されていく。
「……15分のコース、お願いします」 マミは小さく頷き、一言だけ漏らした。 「あう」
2. 深淵のオーバーヒート
外は、すでに夜が支配していた。 店じまいの札がかけられ、マミはハスキー犬の『ガス』と共に、海辺の荒地へと向かった。
風もない。潮騒すらも、今は遠い。 砂を踏む音だけが、世界の終わりのように大きく響く。 ガスが不意に、喉の奥で低く唸った。石室の入り口で、犬は震え、それ以上降りることを拒んだ。
マミは一人、暗闇の底へと降りていく。 光が沈んだその場所に、彼女はいた。
「……マリン」
近づいた瞬間、空気が違うことに気づく。
マミの鼻を突く匂い。壁の湿気が蒸発するかすかな音 。
漆黒の中、マリンの肉体からは人間の血色ではない、発動機が焼き切れる寸前のような『真っ赤』な光が噴き出していた。
揺さぶっても反応がない。マミはなりふり構わず、その頬を叩いた。
バシーン、バシーン!
「……イテテテ! ちょっとマミ、もうちっと手加減できないの!?」 顔を上げたマリンが、苦笑いを浮かべる。
「マリンがタコに……」 マミが嬉しそうに呟く。「タコってなによ!」と毒づきながら、マリンは自分の腕を見て眉をひそめた。 「うっ……何この色、気色悪っ」
肉体が内側から燃えている。 Abyssの称号がもたらした「熱」が、ついに制御不能な領域に達しようとしていた。
3. 見えざる観測者
マリンの表情から、不意に余裕が消えた。
「……ねえ、マミ。誰か来てなかった?」
マミは首を振る。 「そう……。アタシ、見えたのよ。メイドみたいな、ヤバい奴が、ここを覗き込んでるのが」
マリンは天井の闇を見上げた。 「また助けられたの。少年の神様に」
(もしかしたら、神様さえいてくれたらアタシ無敵かも……)
マミは何も言わず、ただそこに立っていた。マリンが掴んだ「深淵」が、彼女の視神経さえも書き換え始めていることを、本能で察していた。
4. 燃えるアパートの記憶
その夜。 ふと思い出したように、マリンが呟いた。
「……ねえ、あの部屋、ちゃんと寝られてる?」
――数日前。 マミのために借りた、ひどく築古の木造アパート。 「なんだか、よく燃えそうなアパートね」 「あうー」 「ごめんね、こんなところしか借りられなくて」
マリンは少しだけ自嘲するように笑って、暗い石室を見渡した。
「……ここにいるとさ、いつか壊れちゃうかもね。アタシも、あんたも」
その言葉は、潮騒に溶けることなく、石壁に深く吸い込まれていった。
- 現在のレベル:加重 70kg達成(60+10kg)/ 持続時間 15分 八十キロの絶壁まで ― 残り、一ヶ月。
