
第19話:歪んだ重力が静止した刻
[壁の傷:ⅰⅱⅲⅳⅴⅵⅶ ⅷ ⅸⅹⅺⅻⅰⅱⅲⅳⅴⅵ ⅶ ⅷ ⅸⅹⅺⅻ ⅰⅱ]
1. 男の部屋:計算違いの証明
「……お茶をくれ」
蓬髪で、影の深い和装の男が低く言った。
鋭い眼光を湛えたその男の前で、給仕に立つのはS.M。彼女はどこか人間離れした、無駄のない所作で男の前に茶を置いた。
「菓子はいらない。部下どもにでもやっておけ」
一瞬の静寂。
部屋中の空気が、目に見えない鉛のように重く沈み込んでいく。男がカップを卓に置く寸前、陶器は自重に耐えかねるような、不吉な軋みを上げた。
男は、空間にぽっかりと開いた『覗き穴(ホール)』を凝視している。
「……カップに、熱がこもりすぎているな」
窓から漏れ出すのは、不気味な静寂と、物理法則をねじ伏せる濃密な魔力の胎動。
「……戻ってこなかったのか」 男は歪み続けるホールの縁をなぞる。 「手順を……『書き換えた』か。計算外だ、あの娘」
2. 洋館の庭:無垢なる異形
場面は変わり、柔らかな陽光が降り注ぐ洋館の庭。
そこではS.Mが、南米の深紅の花に顔を寄せ、その芳醇な香りにうっとりと目を細めていた。
庭の隅、咲き誇る花々の影に、場違いなほど質素な小屋と、名前も刻まれていない古い墓標が佇んでいる。
S.Mはふと、その墓に視線を落とした。
微笑みを浮かべたまま、彼女の唇が音もなく動く。
その瞬間、庭の空気がズシリと、暴力的なまでの重圧を帯びた。
フフフ
(……お父さん、来ていたのね)
一斉に頭を垂れる花々。彼女の足元から漏れ出した重力の波動が、庭の静謐を歪ませていく。
3. 地下の石室:刻印「MONACA」
重力の波動が「源流」へと導く。
香りも光も消え、残るのは湿った石の匂い。
地下、石室。
「マミッ……!」
マリンが、耐えかねたような声で呼んだ。
ザラザラと響くのは、マミの足首に繋がれた十キロの鉄球。パピルスから無情な青い光が漏れ、マミを「手順の贄」として繋ぎ止めている。
「ダメよ! 戻ってきて!」
マリンは鉄球にすがりつく。
その時、マミの灰色の、光を失った瞳がパピルスを捉えた。
震える指先が、パピルスの裏面――隠されていた領域をなぞる。
『……えっ!?』
そこには、生きて蠢くような赤い文字が浮かび上がっていた。
【 M O N AC A 】
「どうして、こんな名前が……?」
それが何を意味するのかは分からない。だが、その文字に触れた瞬間、マリンの胸を裂くような痛みが走った。
(この子は、ここにいてはいけない。……アタシの横に、いさせてはいけないのかも知れない)
覚悟を決め、彼女は配信で得た「投げ銭」の蓄えを思い浮かべた。
いつか手に入れるはずだった海賊船。その夢は遠ざかるが、目の前の「命」を繋ぎ止めるための代償としては、あまりにも安い。
深淵の底で、マミとの夜が静かに更けてゆく。
チセイは闇の中から、マリンが選んだ「絆」という名の新たな呪いを、冷ややかに見つめていた。
[真夏の夜の夢]
- 忘却の残響
マミは、深い眠りの淵で夢を見ていた。
「カイ! 腰が痛いのだ、何とかしてくれ」
玉座で顔をしかめる王の訴えに、傍らに立つ『カイ』は、事務的な冷たさで応じる。
「……私の治療は月に一度。手順のリセットはまだ先です。王の記憶違いでは?」
「ぬう……。ならば仕方ない、モナカを呼べ。あの娘の指なら……」
夢はそこで、重苦しいいびきによって掻き消された。
石室の隅、マリンの傍らで眠るマミの指先が、何かに怯えるように微かに震えていた。
2. 鴉(からす)の休息
同じ刻、全く別の場所で。
濡鴉(ぬれがらす)色の長い前髪を揺らし、場違いなメイド服に身を包んだその人物は、街を歩けば老若男女を問わず視線を釘付けにするほどの美貌を放っていた。
だが、その住処は、いつ燃え落ちてもおかしくないような築古の木造アパート。六世帯がひしめくその一室に、「彼」は潜んでいた。
ジリリ……。
鰹(かつお)の模型を模した、ひどく趣味の悪い通信機が鳴る。
ノイズの混じる声『――M1を回収せよ』
「……。めんどくさ」
男とも女ともつかぬ声で呟き、通信機を無造作に弾いた。
瞬間、脳裏にS.Mから受けた「躾(しつけ)」の記憶が蘇る。
「うっ……」
思い出すだけで胃の奥がせり上がる。あの女の拷問だけは、二度と御免だ。
「……仕方ない。行くべか」
死神のような美貌にダルそうな溜息を湛え、メイド服の刺客は重い腰を上げた。
- 現在のレベル:加重 60kg/ 持続時間 15分
八十キロの絶壁まで -残り、二ヶ月。