
第14話:石の部屋からこんにちは
[壁の傷ⅰⅱⅲⅳⅴⅵⅶ ⅷ ⅸⅹⅺⅻⅰⅱⅲⅳⅴⅵ ⅶ ⅷ ⅸⅹⅺ ]
- 拒絶された慈悲
そのダマスカス鋼の刃が放つ冷徹な輝きは、見る者の脊髄に氷の楔(くさび)を打ち込むような、鋭利な死を予感させた。
――十五分。あと一ヶ月で、静止の時間はそこまで引き延ばされる。
鏡の前で、その女は浮かない表情で自らの舌を出していた。かつてのような、茶目っ気のある仕草ではない。そこにあるのは、瑞々しく、健康的で、あまりに「人間的」すぎる、柔らかな舌。
「力が……足りない」
空気が肌にまとわりつくような、あの全能感が霧のように霧散している。この弱り果てた身体では、次なる「手順」の重圧に耐え切れるはずがない。
チセイは闇の奥から、温度を排した宣告を投げた。
「余は何もしない。そこに手を下すのは、オマエ自身だ」
誰に言うでもなく、乾いた声がこぼれる。
「わかってるわよ……」
石の部屋を出て、どこをどう歩いたのか。
いつまでも、何もない虚空を見つめ続けていた。
- 領域への闖入者
プールサイドの水面は静まり返り、光だけがゆらゆらと揺れていた。
水着に身を包んだその肉体は、もはや誰かを誘惑するためのものではない。見る者の抗う心を根こそぎ削ぎ落とすための、機能的な彫刻。
ピー――。
耳元のデバイスが、無機質に震える。
『ターゲットの潜伏先を特定。作戦を開始せよ』
『可能な限り、傷をつけずに捕獲せよ』
「……せっかくのリラックスタイムを、台無しにしやがって」
女は小さく舌打ちし、グラスの氷を鳴らした。
――地下の荒れ地。
表面上は死んだ土地に過ぎないその場所の深淵には、別の理(ことわり)が息づいている。潜入のプロである「M」は、重心を極限まで落とし、音を殺してその扉をこじ開けた。
「……っ」
肺にまとわりつくのは、薬品の臭いでも腐敗臭でもない。
巨大な怪物の「胎内」に紛れ込んだような、濃厚で、生々しい獣の熱気。
Mが携帯の照明を灯すと、石壁に囲まれた空間に、不自然な水たまり、船長の帽子、そして巨大な漆黒の鉄球が転がっていた。
(ここで……一体、何が行われているというんだ?)
その時。ずっしりと重い袋を抱えた女が、石室へと戻ってきた。
Mは恐るべき身のこなしで天井の突起に指をかけ、気配を消す。所詮は偶像(アイドル)。プロの監視からは逃げられない――そう、確信していた。
- 重力の捕食者
だが、異変は刹那だった。
石室に足を踏み入れたその女は、灯りも点けずに闇の奥へと進んでいく。
(なぜだ……何も見えないはずなのに)
戸惑ったMが着地しようとした瞬間、身体が奇妙な浮遊感に包まれた。重力の軸が狂い、生じた一瞬の隙。
カチリ、とライトが点灯した瞬間、Mの目の前にあったのは、獲物を仕留める直前の猛獣の瞳だった。
「……何しに来たの?」
意識が戻った時、Mは椅子に固く拘束されていた。
目の前には、場違いなほど山盛りにされた色とりどりの「お菓子」。
赤いビキニトップにドルフィンパンツという軽装。だが、改めてその輪郭を捉えたMは、彼女がすでに人の域を超えていることに、本能的な恐怖を覚えた。
- 二枚舌の再誕
「初めてのお客さんだもの。おもてなし、しないとね……」
その女は、優しく、しかし抗いようのない力でMの口に菓子を押し込んだ。
「手が使えないんだもの、食べさせてあげるわよ。……それより、見ててほしいの。一人じゃ、少しだけ心細かったから」
女は、複雑な刃紋が浮き出たダマスカスのナイフを取り出した。冷たい金属の腹が、彼女の唇に触れる。Mは反射的に叫んだ。
「バカな! やめろ! お願いだ、やめてくれ!!」
だが、その女はニヤリと笑った。
暗闇の中、彼女の瞳孔は垂直に割れ、妖しく明滅している。
――断絶。
肉が裂ける、鈍い音。
床に、重い何かが滴り落ちる音が響く。
顔を上げた女の口内からは、二つに裂かれた舌が、それぞれ独立した生き物のように蠢いていた。
一つの喉から漏れ出すのは、重なり合う二重の音(ダイフォニック)。
チセイは目を細めるだけで、動かなかった。止める理由など、どこにもない。
その夜、海は理由もなく荒れ狂った。
- 現在のレベル:
重り 60キロ(3段階目)/時間 10分(2段階目)
【第14話 終わり】