第八話:一千万の残像と、静かなる自惚れ

[壁の傷:ⅰⅱⅲⅳⅴⅵⅶ ⅷ ⅸⅹⅺⅻ]

五月、南国の太陽がデッキを照らす。潮風に吹かれ、自然体で身体を動かしているマリンは、空のどこかに高性能ドローンが潜んでいるとは微塵も思っていなかった。

その夜、仲間からの緊急連絡が届く。「マリン! マジでヤバいことになってる!」 慌てて開いた画面には、『重力無視の謎トレーニング』と銘打たれた動画が、驚異の「10,000,000 VIEWS」を叩き出していた。

「え、うそ、一千万再生!? アタイのプライベートが全世界にダダ漏れじゃん!」

『人間卒業おめでとう』『綺麗だけど、怖い』『これCGだろ?』 「もう! 『綺麗』は嬉しいけど、『人間卒業』ってなによぉ!」 マリンは頭を抱えたが、血の気が引くのは一瞬だった。彼女の肉体は、もはや「隠せないレベル」の異物として、世界に証明されてしまったのだ。

踊り場のワナ

修行開始から一年。 石室の淀んだ空気は、彼女の熱い吐息と、染み付いた鉄の匂いで満ちている。 鏡のない閉鎖空間で、彼女は指先が触れる筋肉の硬さと、浮き出た血管の脈動だけで自らの進化を確信していた。

「……ふふっ、見てよこのライン。どっかのエリート部隊からスカウト来ちゃうんじゃない?」 一年前のふっくらとした面影はない。あえて露出の多い服を選び、筋肉の微細な震えを五感すべてで掌握する。

パピルスのルールには、巧妙な罠があった。九ヶ月目を過ぎた瞬間、足首の重りは合計「四十キロ」へと跳ね上がる。 (四十キロ……『かなたそ』一人分じゃん。しつこい重さね……)

だが、彼女はある「幸運」に気づいてしまった。 「でも、時間はまだ『五分』でいいわけね。なんだ、案外いけるじゃん」

チセイの気まぐれか、あるいは装置の設計か。重さが倍になった一方で、時間の延長は二年目からだった。「四十キロを五分」。それは絶望的な重さだが、鍛え抜いた今の彼女にとっては、ギリギリ「自惚れ」を維持できる安全圏だった。

「アタイの才能が、パピルスの想定を超えちゃったってわけ?」

嵐の前

マリンは知らない。ハビビが、タラオが、この「踊り場」でどれほどの絶望を見たかを。今の彼女にあるのは、暗い石室で独り磨き続けるストイックな自負心と、肥大化した自惚れだけだ。

天井の影で、チセイはニヤリと笑った。 (……今はまだ『重いだけ』だからな)

二年目が来たとき。この四十キロの鉄塊をぶら下げたまま、時間が無慈悲に「倍」へと引き延ばされる。重力に魂を削り取られるような本当の試練は、そこから始まるのだ。

マリンが四十キロの鉄塊を力強く蹴り上げる。 彼女の調子に乗った心が、パピルスの本当の冷酷さに打ち砕かれるまで――残り、一ヶ月。

  • 現在のレベル:重さ 40キロ(二段階目)/時間 5分

【第八話 終わり】


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