第七話:〔前編〕勇者の残滓と、計算違いの絶望

[壁の傷:ⅰⅱⅲⅳⅴⅵⅶ ⅷ ]

「あの狂った男、ハビビでさえ、最後はあんな無茶をして立ったまま果てたというのに。この女も、同じ道に足を踏み入れるつもりか……」

石室の床で、よだれを垂らして眠りこける「その女」を、チセイは冷ややかな、だが複雑な眼差しで見下ろした。 パピルスの試練を越える者は、もはや「人間」という枠を逸脱した異形の存在でしかない。

「……そろそろ例の時期か。壊すには惜しいが、余が手を貸す道理もないからな」 チセイは小さく舌打ちをした。数百年ぶりに芽生えた、柄にもない「愛着」という名の毒を、闇の中に隠すように。

自称天才の、甘い誤算

「なんか……アクションヒーローになっちゃう夢見ちゃったぁ……」 寝言を漏らしながら、マリンは目を覚ます。 「でも、正夢になる日も近いかも! 見てよ、この神々しいボディ!」

パピルス先生の指導が始まって、約八ヶ月。 壁に刻まれた血と汗の傷が増えるたび、マリンの肉体は、自ら「マジ惚れる!」と豪語するほどに磨き上げられていた。 合計二十キロの重圧は、今も「徒刑囚」のような過酷さを強いるが、彼女にとってはすでに、心地よい「日常」の一部と化していた。

(このままルーティンをこなせば、三年後には永遠の若さと美しさ、そして最強の力が手に入る。……ぐふふ、あいつらが腰を抜かす顔が目に浮かぶわぁ……)

重力の断崖絶壁

だが、そんな甘い夢想を、パピルスに刻まれた一文が冷酷に引き裂く。

『一度上がった閾値(しきいち)を、下げることは能わず』

「……当たり前じゃん、何言ってんのよ」 鼻で笑った次の瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。

【パピルスの真実:重力の加速】 ・九ヶ月:四十キロ ・一年半:六十キロ ・二年三ヶ月:八十キロ

重力はなだらかな階段などではなかった。それは、垂直にそそり立つ断崖絶壁だったのだ。

「…………は?」

八十キロ。その数字を前に、マリンは己の腕が細い枯れ枝のように感じられた。重力という名の巨人が、彼女を床に押し潰し、塵にせんと嘲笑っている。

「え、ちょっ……パピルス君、冗談キツすぎ! 八十キロって何!? 握力がゴリラな天使が二人して、足首にぶら下がってるようなもんじゃない! 無理無理! 首がポーンって飛んでっちゃうよ!」

背中を伝う、嫌な冷や汗。 慌てて八十キロ分の重りを用意してみるが、それはもはや物体ではなく、決して動かぬ「概念」の塊だった。

「あわわわ……」 ――動かざること、山のごとし。 筋肉はある。だが、重力はそれを筋肉とすら認めない。

「ハビビ、タラオ、ヒロシ……。アンタたち、一体どんな化物だったのよ……っ!」

だが、嘆いている暇はない。九ヶ月の期限まで、あと一ヶ月。 四十キロをクリアできなければ、そこで全てが『終焉』を迎える。

「アタイのバカバカバーカ! 階段が高すぎるなら、自分で『踊り場』を作ればいいじゃない!」 彼女は掟の隙間を縫うように、中間地点として「合計三十キロ」の鉄球を、震える足首に縛り付けた。

 


 

第七話:〔後編〕共鳴、そして深淵の腕(かいな)

孤立する偶像(アイドル)

ⅰⅱⅲⅳⅴⅵⅶ ⅷ ⅸ

今やマリンには、遊ぶ時間も、眠る隙間もなかった。 思考を占めるのは、時間、時間、そして――重さ。

彼女は表立った活動をすべて休止した。 「引退かな?」「お願い、顔だけでも見せてよ」 一味(ファン)からの悲痛な連絡も、今の彼女には届かない。石室の隅で、バッテリーの切れたiPhoneが、死んだ魚のような黒い画面を晒して転がっている。

ふと画面に映り込んだ自分の顔。そこには、かつての華やかさなど微塵もない、薄汚れた「雑巾」のような女がいた。

四十キロの試練

レベルアップの期限まで、残り一日。 三十キロには慣れた。だが、そこからさらに十キロの負荷。もし耐えられず、首の骨が砕けたら。

「……ネロみたいに、天使が肩を貸してくれたりしないかしら」 そんな力ない冗談を吐き捨て、彼女は四十キロの鉄球を繋いだ。 その瞬間、パピルスの光が不気味な「緑色」に変わる。

「え、何これ……。でも、やるしかないんだよ……っ!」

倒立した瞬間。 世界中の重力が自分一人の肩に集まったかのような衝撃が、マリンを押し潰しにかかった。 意識が遠のく。天井の闇の中に、鋭い「かぎ爪」が見えた気がした。天使ではない。それは、敗者を深淵へと引きずり込む、死神の指先だ。

(嘘でしょ……ここで終わるの? 17歳の美少女が、こんな石室で……。さようなら、アタイ……)

共鳴(レゾナンス)

『ウォーーーン……』

突如、空間が震動した。壁が、床が、そしてマリンの骨が、一斉に鳴動を始める。 チセイが、その瞳を驚愕に見開いた。 「……共鳴(レゾナンス)だと!?」

パピルスから溢れ出した光の粒が、実体を持つ「腕」のような形を成して伸びる。それは冷酷に、だが確実に、マリンの肉体を下方から支えるように掴み上げた。

「アレーーーー!!」

激しい震動と熱が彼女を貫く。 光が消え、マリンが床に崩れ落ちたとき、タイマーは無情にも「五分」を刻み終えていた。

チセイは闇の中で、静かに独りごちた。

「……オモチャが、境界線を越えちまったか」

  • 現在のレベル:重さ 合計40キロ(レベルアップ達成)/時間 5分

 

【第七話 終わり】


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