【第四話】:壁に刻む、未熟な決意
孤高の帽子と、静かなる闘志
石造りの冷たい部屋。調度品と呼べるものは、隅に置かれた古びた机と、壁の燭台、そこから伸びる不規則な影だけだ。
机の上には、彼女のアイデンティティそのものである「船長の帽子」が、主の帰りを待つように置かれている。
「なるほどな。この女の執着心……少しだけ、腑に落ちたわ」
チセイは実体を持たぬまま、その帽子と、床で瞑想する女を交互に見つめていた。
マリンは床に胡坐をかき、静寂の中で自分の鼓動を聞いていた。
(……まずは、理想の形をこの身体に叩き込む。アタイは、伝説の海賊なんだから……!)
《最初の挫折》
短いようで、恐ろしく長い五分。精神を研ぎ澄ました彼女は、滑り止めのシートを、獲物を狙う猛獣の目で睨みつけた。
「ええいっ……!」
気合と共に両手を突き立て、腰を跳ね上げる。
倒立。逆転した世界。
だが、その視界はすぐに激しく揺らいだ。腕は生まれたばかりの子鹿のように情けなく震え、重力という名の怪物が容赦なく彼女を引きずり下ろす。
――ドシンッ!!
「あきゃっ!」
硬い石床に、柔らかな肉体が叩きつけられる。
石部屋に響く鈍い音、遅れてやってくる激痛。
「……なんで。アニメや漫画だと、みんなあんなに軽々やってるのに……っ」
涙が滲む。だが、彼女の口から漏れたのは弱音ではなかった。
「重力なんて……アタシの欲望より、ずっと軽いくせに……っ!」
《泥臭い一歩》
「今の私には、まだ早い。なら――泥を啜ってでも、段階を踏むまでよ!」
彼女は壁際まで這い寄り、再び逆さまの世界に挑む。
壁を支えにする。だが、それすらも「自称17歳」の肉体には過酷な試練だった。
倒立の勢い、壁との距離、脚を開くタイミング。噛み合わない歯車に翻弄され、彼女は何度も壁に身体を擦りつけ、皮膚を剥いた。剥けた場所から汗が染み、火を吹くような熱が走る。
『絶対にできる。必ずできる。……アタイが自分を信じなくて、誰が信じるのよ!』
何度目かの挑戦
「やった……っ!」
右の指先が、確かに壁の冷たさを捉えた。左脚を大きく広げ、壁を支えに「開脚倒立」を維持する。
ここからが、本当の時間――未知の五分間。
《岸壁の意志》
顔は真っ赤に充血し、歯を食いしばる口元から漏れるのは、苦悶の吐息。
それでも、彼女の瞳は死んでいない。闘志の塊となって、壁の一点を射抜いている。
(……あと、一分……!)
気が遠くなるような秒針の音。ついにその時が来た。
「……あうぅ……」
意識が混濁し、崩れ落ちるように床へ沈む。
だが、倒れ伏した彼女の口は、わずかにニヤついていた。
「……出来て、当然よ。アタイの意志は、岸壁より硬いんだから!」
《魔術師の心酔》
チセイはその無様な、しかし鮮烈な光景を見て、声を上げて笑った。
かつての嘲笑ではない。己の遺した「呪い」に、血を流して真正面から挑む者への、剥き出しの敬意。
「次は、どんな解法(答え)を出すかな?」
チセイは久しぶりに、胸が躍るような感覚を覚えた。
あの机に置かれた帽子に、また一つ、新しい「伝説」が刻まれようとしている。
不老不死の魔術師にとって、一人の人間の冒険心というものが、これほどまでに眩しいとは。
次に−−こいつ−−が何を選ぶのか。それを待つ自分に、彼は心地よい驚きを感じていた。
●現在のレベル
〈まだスタート前だが、倒立開脚をクリア〉
【第四話 終わり】