【第三話】:孤高の影と、重なる鼓動
傲慢な観測者
「……くだらん」 厚い雲の上、あるいは次元の隙間。チセイは地上を見下ろし、吐き捨てるように呟いた。
どいつもこいつも、自分の都合、自分の欲、自分の正しさ。 奪い、誤魔化し、忘れたふりをして生きる。 人間という生き物の、なんと節操のないことか。
「まあいい。……あいつはどうだ」 ふと、あの無謀な女を思い出した。
例のパピルスを手にした、やけに目の澄んだ女。
「普通なら、諦め、他人を罵っている頃だ……」 フフフ、冷やかし半分に、彼は石の部屋を覗き込んだ。
《石の部屋の静寂》
「……っ、まだ……!」
チセイの予感が外れた……。
椅子の上に乗せた両足。 膝は鋭く伸び、脚は限界まで左右に開かれている。 両手には重いダンベル。 彼女の全身は、細かな痙攣のように震えていた。
「バランス……逃がさない……!」 肺を焼くような荒い息。だが、視線は一点も見失っていない。 チセイは無意識に腕を組んだ。
(ふむ……) 修行における「初動」。 もっとも重要で、もっとも挫折しやすい壁。 そこを、この女は――理屈ではなく、直感で捩じ伏せようとしている。
広い海で、陸が見えなくなったとき。 恐怖に飲まれるか、ただ進むか。彼女は迷わず後者を選んでいた。
「えいっ……!」 一際強い震えと共に、脚がさらに数センチ沈む。
床と、ほぼ一直線。 物理法則と肉体の限界が、一瞬だけ調和した。
その調和の裏で、筋繊維は確実にクレッシェンドし、視界の輪郭が白に溶けかかる……
チセイの口角が、わずかに動いた。
それは称賛ではない、確認だ。
声は喉の奥で消える。
成功は音を立てない。
ただ、沈黙のどこかでーー何かが満足していた。
《頁に刻まれた孤独》
数日後。マリンは街の古本屋の隅で、一冊の本に足を止めた。 『かつて存在した恐るべき魔術師』 異様に重厚な装丁。
指先に触れる感覚が、妙にざわついた。
「……なんか、呼ばれた気がしたんだよね」 深い意味はない。だが、彼女はそういう直感を信じる。
石の部屋。汗を拭い、ページをめくる。 やがて、ある章に辿り着いた。 ――スウェーデンの魔術師、チセイ。
読み進めるうち、マリンは何度も眉をひそめ、 その独裁的な振る舞いに呆れ、鼻で笑った。 ……しかし、最後の数行で、彼女の手が止まった。
「……なにこれ」 沈黙が部屋を支配する。 「……勝手すぎでしょ、この人」 独裁者として恐れられ、誰の手も借りず、ただ高みから世界を支配した男。 その「力」の裏側にあった、語られることのない意志。 マリンの胸の奥に、言葉にならない重みが落ちた。
「力ってさ……」 独り言が、冷たい壁に反響する。
「持ってるだけじゃ、ただの重りなんだよね。……あいつみたいに」
《影の微笑》
「……ふん」 天井の影。
チセイは不敵な笑みを浮かべ、頭を掻いた。 (美化しすぎだ。僕がそんな殊勝な人間なわけがないだろう) 不愉快なはずの解釈。だが、否定する気は起きなかった。
「まあ……」 誰にも聞こえない声で呟く。
「使い道を考えるようになるまで生き残っただけ、上出来か」 彼は再び、影の中に溶けて消えた。
マリンは本を閉じ、深く、長く、息を吐く。 「……よし」 理由は、まだ言葉にならない。 でも、彼女の眼差しは、先ほどよりも鋭く、そして静かだった。
「これ、本当に美しくなれるんだよね?信じてるよ、魔術師くん!」
その時パピルスから、なんとも言い難い心地よい、不穏な薫りがした。
彼女は再び、椅子の前に立った。
今度は迷いなく、その脚を広げるために。
そして、
魔力という「毒」に魅入られていく危うさにも気づかずに……
●現在のレベル
〈まだスタート前、椅子開脚をクリア〉
【第三話 終わり】