【第五話】:揺れる二十キロと、覚醒する魔力
慣れという名の停滞

 

あれから数ヶ月。石の部屋を包む季節は巡り、凍てつく冷気はマリンの吐く息を白く、鋭く染めていた。
壁を使った倒立開脚――かつては『虎の穴』のようだったその滝登りも、今の彼女にとっては「準備運動」に過ぎない。

五分間という静寂時間は今も変わらない。
だが、彼女の心拍数は驚くほど穏やかだった。

「はぁ~……ふぅ〜。よし!」
今日も完璧なマリン。天才すぎて怖くない?
タイマーの電子音が止むと同時に、彼女は『オセロット』のように着地した。

その身体からは無駄な脂肪が削ぎ落とされ、必要な部位にだけ、彫刻のような、それでいて艶やかな独自の曲線を描く筋肉が宿っている。
それはアイドルの可憐さというよりは、獲物を狙う猛獣の機能美に近づき始めていた。

天井の闇に沈むチセイは、退屈そうだった。

《パピルスの課題:十キロ》
マリン自身もまた、その「用意していた物」に、向かい合う時に来ていた。

彼女の視線は、部屋の隅で鈍い光を放つ「次の段階」の道具――太い麻のロープと、二つの漆黒の鉄球へと吸い寄せられる。

パピルスには、冷静な一文が刻まれていた。 『両足首に、各十キロの重りを繋ぐこと』

「……やるしかないわよね。一味のみんなも、最近のマリンは艶っぽくなったって褒めてくれるし……ここで止まったら、ただの『ちょっと筋肉質な船長』で終わっちゃうもん!」

自分を鼓舞するようにわざと声を張り上げるが、足首にロープを巻き付ける手は微かに震えていた。

「片足十キロ……合計二十キロ!? 絶世の美少女(十七歳)に背負わせる重さじゃないでしょっつーの!」

文句を吐き捨てながらも、足首をきつく縛り上げる。
「ふえっ…何?」
その瞬間、沈黙を守っていたパピルスが、パチパチと青い火花を散らした。彼女の覚悟に、魔力が牙を剥いて呼応したのだ。

《絶望と、鉄の味》
彼女は肺の奥まで空気を吸い込み、床を力強く蹴り上げた。 ――グンッ!

「うそっ、重……すぎ……っ!?」 逆立ちの姿勢に入った刹那、凄まじい衝撃が全身を貫いた。
二十キロの鉄塊は、無慈悲な重力の権化となってマリンの細い腕に襲いかかる。
制御不能の鉄球は振り子のように暴れ回り、彼女の重心を無残に引きずり回した。

「あきゃっ!!」 鈍い音を立て、膝と腹が床に激突する。 「いたたた……っ! なによこれ、物理的に無理ゲーじゃないの……!」

何度も、何度も挑んだ。
だが二十キロの怪物は、彼女を床へ叩きつける手を緩めない。
『重いだけじゃない……揺れるのよ。
足首が持っていかれる……! バランスを保とうとすればするほど、鉄球がワガママに暴れ回って、アタシを壊そうとする……っ』

床に這いつくばり、擦りむいた膝を抱えて鼻をすする。 積み上げてきたプライドは、砂の城のように崩れ去っている。

マリンはかき口説きながら、鈍く光るパピルスを掴み、縁に噛みついた。

――ガリッ。

痛み。

口の中に鉄の味が広がる。
血だ。

その一滴が、羊皮紙に落ちた。

パチパチと青い火花。
そこに一瞬だけ−−緑が混じった。

チセイが気がついて身を乗り出す。

「……やめよっ」
声が震えた。
もう遅い。 血が触れた瞬間、パピルスの青いスパークに、一瞬だけ不気味で禍々しい緑の光が混じった。

そして、マリンは開き直ったかのように部屋を出た。

《屈辱の選択、生存の知恵》
「……ふんっ。パピルスのバカ! 正攻法でやって死んだら元も子もないわよ!」 マリンは、十キロの鉄球を投げ捨てた。
代わりに、奥から五キロの重りを二つ、力任せに引き摺り出してきた。

「プライドなんて、とっくに大西洋に捨ててきたんだから……!」

ヤケクソ気味に叫び、再び床を蹴る。
合計十キロ。記されている半分の重さ。

だが、今のマリンにとって、それは「制御できる限界」の境界線だった。
鉄球が遅れて落ちてくる、そのわずかな“間”に、彼女は全神経を研ぎ澄ませて体幹を滑り込ませた。

「……のぼっ……た……!」 倒立。
足首から垂れ下がる五キロの鉄球が、空中でピタリと静止する。
そこから少しずつ、脚を開く。

だが、その苦痛と引き換えに、変質したパピルスから溢れ出した濃厚な光が、足首から全身へと熱く流れ込んできた。

《覚醒》
「……最初に繋ぐ重さの半分。でも……」
たった5キロ、それでもわずかな揺れが鉄球を生き物に変える……

パチパチと、スパークが空間を震わせる。
パピルスは、彼女の「血」と、泥臭い「機転」を認めたのか。
冷酷なカウントダウンが始まった。

(……不思議。パピルスが光るたび、その『重み』がアタシの一部になっていくのが分かる……)

顔を朱に染め、汗に塗れる。

腕は岩のように微動だにせず、身体は未知の熱に支配されていく。

(さらに骨が軋む音まで、甘美な響き)
鉄球の揺れる音まで鐘の音のように、体幹を痺れさせた。
「この感覚……たまらない……っ!」

チセイは、影の中で深く溜息をついた。

「大抵の愚か者は、記述通りに始めてそのまま首の骨を折るんだがね。
己の限界を認め、一歩退いてから跳ぶ……
それがこいつのCOSMOのようだ」

記述を無視した「五キロからのスタート」
それは、宝鐘マリンが肉体の門をこじ開けた、彼女らしく強欲で、気高い一歩だった。

そしてチセイは初めて、
神がサイコロを転がすのを予感した。

●現在のレベル
〈まだスタート前だが、合計10キロ/時間5分をクリア〉

【第五話 終わり】

 

 


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