
シンジ君のYouTube体験
シンジ君はよくYouTubeを視聴していますが、彼のタイムラインには「視聴回数10万回以上」の華やかな動画が目立っています。
それを見ているうちに、彼は無意識のうちにこう感じるようになりました。「なるほど、動画の視聴回数は、世の中ではこれくらいが普通なんだな。」
これまで視聴者であったシンジ君は、一念発起して自分も「投稿する側」に回ることを決意しました。彼は必死に動画編集の技術を習得し、大好きなゲームの攻略動画をじっくりと作り上げました。
「よし、これで完璧だ!」
投稿を終え、彼は結果を楽しみにしていましたが……画面を見て「あれっ!?」と驚きました。再生数は、なんと「数回」でした。
「なんでやねん!」
同じゲームを扱っているのに、他の動画は数万回、数十万回と視聴されているのです。「初動のタイミングが悪かったのかな……」と考え、それ以降も頑張って時々投稿を続けました。しかし、結果はいつも10回、良くて100回程度。画面に映し出される厳しい数字の前に、シンジ君の気力は徐々に衰えていきました。
さて、実はシンジ君が経験したこの絶望は、YouTubeの世界では「完全に普通に起こること」なのです。
私たちがYouTubeを開くとき、AIのアルゴリズムは「すでに多くの人に観られている動画」を優先的にタイムラインに表示します。視聴回数が10回や100回の動画は、特定の検索をしない限り、私たちの目には絶対に触れないように設計されています。
ネットの世界には、「90・8・2」のような構造があると言われています。
全体の約90%は見るだけの利用者、約8%が時々反応する利用者、そして発信する人はわずか約2%です。
さらに、私たちが毎日目にしている人気動画は、その発信者全体の中でも、ごく一部の成功例にすぎません。
この二重の偏りを知ると、「みんな成功しているように見える」という錯覚が生まれる理由が、とても理解しやすくなります。
実際、投稿される動画の99%は誰の目にも触れず、静かに埋もれていきます。私たちが日々目にしている10万回超えの動画は、厳しい競争を勝ち抜いたほんの一部の「生存者」なのです。私たちは無意識に、その見えている一部分だけで世界を判断してしまう【生存者バイアス(Survivor Bias)】という脳の錯覚にはまっています。
「では、再生数が少ない動画は、悪い動画なのか?」
決してそうではありません。膨大なエネルギーを注ぎ込み、映画のように作り込まれた優れた動画であっても、初動の波に乗れず数回しか再生されないことは日常茶飯事です。逆に、スマートフォンで適当に撮っただけの動画が、何かのきっかけでタイムラインに乗り、100万回再生されることもあります。
一度視聴回数が伸び始めると、「みんなが見ているから面白いのだろう」(社会的証明)という心理的バイアスが働き、数字の差はますます開いていくシステムになっています。
経済学では「マタイ効果(富める者はますます富む)」とも呼ばれる現象で、音楽のヒット作、書店のベストセラー、SNSの「いいね!」の数、すべて同じ力学で極端な偏りが生じています。数字は一つの目安にはなりますが、決して「作品の本当の価値」とは一致しません。
YouTubeが不公平なのではなく、膨大な動画の中から視聴者に合う作品を選ぶ仕組みを作った結果、このような偏りが生まれやすくなっている。
その冷徹な仕組みに気づいたシンジ君は、「なるほど。99%の消えていった動画の海の中には、まだ誰にも見つけられていない『宝物のような作品』が眠っているのだな」と思いました。
彼はそこに知的な活路を見出し、数字というノイズを心の隅に引き算し、バイアスに惑わされないクリアな視点で、ネットの深海から本物の価値(遭遇の感動)を探し出そうと決意しました。

「発信者の中でも、さらに生存者バイアスがかかる」
この考え方はYouTubeだけではありません。
例えばバンドなら、
- 楽器を演奏する人は少数
- ライブハウスで活動するバンドはその一部
- メジャーデビューするのはさらに一部
- 長年第一線で活躍するのはごく一部
私たちがテレビや配信で目にするのは、最後の層です。
甲子園でも同じです。
テレビで見るのは甲子園出場校ですが、
その裏には
- 野球を始めた子ども
- 部活動を続けた選手
- 地区大会で敗れた学校
- 県大会で敗れた学校
が何倍、何十倍も存在します。
私たちは、世の中を見ているつもりで、実は「生き残ったもの」だけを見ていることが少なくありません。
だからこそ、「見えていない90%以上」にも思いを巡らせることが、現実をより正確に理解する第一歩なのかもしれません。
(おしまい)
【補足】『うまい話に気をつけろ』
この考え方は、別の言い方もできます。
例えば誰かが、
「この業界はまだ参入している人が少ないから、成功しやすいですよ。」
と勧めてきたとします。
そんなときは、一度こう考えてみてください。
「その少数の中でも、さらに大きな格差が存在するのではないか。」
確かに競争相手が少ない業界は存在します。
しかし、それだけで成功しやすいとは限りません。
その世界でも、ごく一部だけが大きな成果を上げ、多くの人は目立たないまま活動していることも珍しくないからです。
だからこそ、「参入者が少ない」という事実だけで判断せず、その中にどのような構造や偏りがあるのかまで考えてみることが大切なのです。
「競争相手が少ない」という情報だけを見るのではなく、その中にも生存者バイアスが潜んでいるかもしれない。そう考えるだけでも、物事をより立体的に捉えられるようになります。





